ニューヨーク・ブラックカルチャーfromハーレム

ニューヨーク・ブラックカルチャーfromハーレム


New York Black Culture Trivia

New York Black Culture Trivia 1999.05.16 (No.2)

ゴートカリーと移民
Goat Curry and Illegal Immigrants




    国境をすり抜け、ビルの谷間に暮らす日本人の知らない“ニューヨーカー”たち

      ソルトフィッシュの炒め煮、ライス&ビーンズ、スライス・トマトがひと皿に盛られている。 1997年、ニューヨーク。秋になったばかりの、とある日曜日の夜。 マンハッタンからイースト・リバーを地下鉄で越えたブルックリン、 その一角にある小さなアパートの一室。 目の前に出されたのはレニーのママが作ってくれたカリビアンの家庭料理だ。 あまり空腹ではなかったものの、 せっかく作ってくれたママの手前、ひとくち、ふたくちと食べてみた。 ところがこれが予想外に美味しくて、信じられないことに、 あっというまに全部平らげてしまい、 結局はレニーの分まで分けてもらうこととなった。 ママはカウチに座ってにこにこしながら私を見ている。

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    私がチェルシーとグリニッヂ・ヴィレッジの境目あたりにあるアパートを 不動産屋と一緒に下見に来たのは、12月になったばかりのとある日の午後。 その時、 レニーはアパートの一階にあるデリ(食料品店兼そうざい屋)の中から私に手を振った。 店のウインドウ越しに彼が見えたが、その時の私には彼を気に留める余裕はなかった。 当時住んでいたレジデンスをクリスマス直後に出なくてはならず、 直ぐにでも引っ越し先を決めなければ、 ニューイヤーズ・イヴを路頭で過ごすはめになりそうだったからだ。 エレベーターのないアパートを5階まで上がり、間取りを確認して、引っ越しを即決した。 室内はすべて改装されており、ガスコンロと冷蔵庫も新品に交換されていた。 おまけに駅にも近い。 これなら文句はないどころか、超ラッキーだ。

    それから2週間後に越してきてからは、 アパートに出入りする度にレニーと顔を合わせることとなった。 と言うのも、 彼が働いているのは奥のキッチンまで合わせても恐らく8畳足らずのほんとうに狭い店で、 レニーともうひとりの店員ブックは少しでも手が空くと、 すぐに店の表に出てナンバーズの数字を占ったり、新聞を読んだりしていたからだ。 そのうちに少しずつ彼らと話をするようになり、 特に話し好きのレニーとは店先でよく立ち話をした。

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    レニーはカリブ海の小さな島国、セント・ルシアからニューヨークにやってきた青年だ。 19歳の時に生まれ故郷を後にして、当時27歳。 ドレッドロックのラスタマンで、カンフー映画のファン。 だからエクササイズは欠かさないし、 いつか時間ができたらチャイナ・タウンでマーシャル・アートを習いたいと言う。 ブルックリンのカリビアン・コミュニティで二人の弟と一緒に暮らし、 マンハッタンのダウンタウンにあるこの小さなデリで働いている。夢は彫金師。 オニキスをはめ込んだシルバー・リングが得意だと言う。

    レニーの故郷セント・ルシア (St.Lucia)は、 キューバ、ジャマイカ、ハイチ、ドミニカ共和国、 プエルト・リコなどが転々と連なる西インド諸島のなかでもかなり南東に位置し、 従って南米大陸にも近いごく小さな島国だ。対馬をひとまわり小さくしたほどの面積に、 山口県民の10分の1にあたる約16万人の国民が暮らす。

    17,18世紀のフランス、イギリスによる統治時代に、 さとうきび農園の働き手としてアフリカから大勢の奴隷が連れてこられたため、 現在も人口のほとんどは、その子孫である黒人たちだ。公用語は英語だが、 実際にはクリオール語(かつての宗主国の言葉であるフランス語と英語、 奴隷が持ち込んだアフリカの言語が混ざって出来上がった言語)が広く使われている。

    現在はバナナの輸出と、そのトロピカルな自然を生かした観光地として知られている。 だが観光客のほとんどはアメリカ、カナダ、ヨーロッパからで、日本の観光ガイドブックでは、 なぜかあまり紹介されていない。カリブ海諸国のなかでは比較的豊かなほうだが、 それでも国民総生産は日本の10分の1にも及ばない。 ニューヨークまでは飛行機で5時間。これが移民たちにとっては、近くて遠い5時間だ。

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    レニーは毎朝7時半にこのデリに出勤する。ブックはニュージャージーからやって来る。 デリにしては遅い開店だが、人通りの多いアヴェニューではなく、 やや引っ込んだストリート沿いにあるので、それより早く開けても客が来ないのだ。 レニーとブックが一個ずつ持っている鍵でシャッターを開ける。オーナーが用心深く、 二人揃わないと店に入れないようにしてあるのだ。開店後はまず掃除を済ませ、 それから棚に商品を補充し、キッチンに入ってサンドイッチを作る準備をする。

    店にはいろんな客がやってくる。ある青年はビールを買う小銭が足りなく、 地下鉄に乗るための代用硬貨トークン(1.5ドル)をまぜて払うと言った。 始めは断ったレニーだが、連れのガールフレンドの「ね、お願い。今度だけ」に負けて、 最後にはビールを売ってしまった。 また、ある時は若い母親が2,3歳の子供を連れてやってきた。 疲れた様子の母親は子供の手を強く引っ張り、必要以上に叱りつける。 見かねたレニーが母親をなだめる。親子が店を出た後にレニーが言った。 「子供は大事に抱きしめて育ててやらなきゃだめなんだよ」

    常連客も来る。毎朝出勤前に野菜ジュースを飲んでいく女性や、 学校帰りにジャンク・フードを買い食いする子供たち。 同じアパートの3階に住む老人ダニーも一応、常連客だ。 レニーやブックと同じカリビアンで、 いつも茶色い紙袋にくるんだ缶ビールを片手にほろ酔いでデリの脇、 アパート入り口の階段に座って日光浴をする。時々ろれつがまわらなくなり、 暇を持て余したブックやレニーにからかわれているが、本人はまるで気にする様子もなく、 しゃべり続ける。

    ある日、店にヒスパニックの青年がやってきた。レニーとは知り合いらしく、 お互いに久しぶりだな、元気か、とやりとりしている。その青年が言った。 「今年からカレッジに通っているんだ」 「…そりゃ、すごいな」レニーが返事をするまでに一瞬の間があった。 レニーには大学に通う余裕など、ありはしないだろう。 店には週に2,3度、オーナーのエディがやって来る。 レニーとはセント・ルシア時代からの友人だそうだ。 これが スキンヘッドにカンゴールを被ったマイケル・ジョーダン張りのけっこうな男前なのだが、 日本製の四駆で店に乗りつけ、私を見かけた時には 「いやぁ、昨日はバスケの試合で500ドルすっちゃって、まいったな。 そう言えば俺ボクシングやってるんだけど、来週は試合なんだ。 チャンピオンだぜ。ところでお茶でもどう?」と、相当な自信過剰タイプだ。 だいたい、私のことを気に入っているから誘っているというわけではなく、 ただジャパニーズのガールフレンドを連れて歩きたいだけ、というのが見え見え。 それにしても、 こんな流行らないデリを経営しているだけで、あんな高級車を乗り回したり、 大金を賭けたりできるはずはない。なにか副業があるか、もしかしたら、 このデリが公にはできない本業のカムフラージュなのではないか、 といろいろと想像を巡らせたものだ。 しかもレニーやブックに対する態度がどう見ても「友達」 のそれではない。とにかく高圧的なのだ。

    そもそも私が越してきた頃には店員は3人いて、 朝と夜のシフトを交代で勤めていたのだが、 そのうちに一人がセント・ルシアに帰るといって辞めていった。 その後、オーナーのエディは補充店員を雇わず、 結果としてレニーとブックは毎日朝7時半から夜10時まで店に缶詰状態となったのだ。 しかも店は年中無休。8時で閉店する日曜の夜が唯一の骨休めだ。 「なんでもう一人雇ってってエディに頼まないの?」 という私の質問に対するレニーの返事は「無言」 だった。

    その後、エディとレニーの関係が少しだけ明らかになった。ある夏の日、 外出先からアパートに戻ってきたところでエディに出くわし、あまりにしつこく誘うので、 とうとう角にあるコーヒーショップに一緒に行った。店に入った途端に激しい夕立ちとなり、 人々がずぶ濡れになりながらも、 雨宿り先を求めて右往左往する姿をガラス壁越しに眺めていると、 エディがなにか話しかけてきた。 そもそもエディとコーヒーなど飲みたいわけではなかった私は 「レニーは一日15時間働いて、 そのすぐ側で私たちはこうやってコーヒーを飲んでるわけね」と、つい、 あてつけがましい態度をとる。それに対してエディは「それがあいつの仕事だから。 あいつはずっとそうやって働いてきたんだし」 とまったく事もなげに言う。その場は適当にお茶を濁してアパートに帰ったのだが、翌日、 出掛けようとしたところをレニーに呼び止められた。

    「彼には僕のことは話さないで。八つ当たりされるのは僕だし、 この仕事を失すわけにはいかないんだよ」と言う。 「彼? 彼って誰のこと?」 「エディだよ」 レニーはエディの名前さえ口に出したがらない。 以前、人のことには一切口をはさまないし、 噂話もしない。何かをしゃべると結局は自分に返ってくるから、と言ったことがある。 「何で? こんなに待遇悪くて、しかも不当にいびられて、 一体どうして辞めて他の仕事を探さないの?」 と問い詰める私に、とうとうレニーは告白したのだった。 「僕はイリーガル(不法滞在者)なんだよ」

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    米国移民局の資料によると、 1997年の1年間だけで約80万人の合法移民が米国に入国している。 その落ち着き先だが、州別だと約20万人でカリフォルニアが1位、 しかし都市別だとニューヨークが10万7千人でトップだ。 その合法移民80万人の出身国リストを見ると、 メキシコが圧倒的1位。 2位から5位をフィリピン、中国、ベトナム、インドとアジア勢が占めているが、 6位以下にはキューバ、ドミニカ共和国、ジャマイカ、ハイチと カリブ海諸国の名が多く上がっている。 レニーの故郷セント・ルシアはそもそも人口が少ないため、 単独ではリストの上位に上がってこないが、 カリブ海諸国全体では全合法移民の13.2%(10万5千人)を占めている。 これはあくまで1997年だけの数であり、 手元の資料には1994年から1997年にかけて 毎年10万人前後のカリビアンが合法移民として米国にやってきていると記されている。

    一方、不法移民に目を向けてみると、 1996年10月現在、全米に約500万人が存在すると推定されている。 全米総人口約2.6億人の1.9%、実に100人中2人が不法滞在者ということになる。 州別にみると、 陸続き故にメキシコからの越境者が押し寄せるカリフォルニア州とテキサス州に続き、 第3位が54万人のニューヨーク州だ。 都市別の資料はないが、ニューヨーク州の場合、移民の居住先は、 そのほとんどがニューヨーク市に集中している。 従ってニューヨーク市の人口約864万人のうち6%が不法移民ということになる。 だが上位2州と違ってニューヨークにメキシコ人は少なく、代わりにカリビアンが目立つ。

    合法移民全体におけるカリビアンの割合13.2%を、 試しに不法移民500万人に当てはめてみると65万人となる。 そして、このうちのかなり多数がニューヨークに住んでいるはずだ。 合法移民、不法移民、米国生まれの二世や三世を合わせると、 一体どれぐらいのカリビアンがニューヨークにいるのだろうか。 また米国政府統計局の1990年の資料によると、ニューヨーク市の人口のうち、 28.2%が外国生まれであり、実に41.0%が家庭では英語以外の言葉を使っているという。 街を歩くだけで「移民国家アメリカ」を実感できるニューヨークだが、 数字を追うことによって、さらにその実態が見えてくる。

    合法、不法の別はさておき、これだけの数の移民がいるからこそ、 アメリカは世界に誇れる「多様性のある文化」を持つことができたのだ。 文化というものは一部の知識人やアーティストだけが生み出すものではない。 例えば、 レニーの働くデリではカリブ海の伝統料理であるゴート・カリー(ヤギ肉のカレー) を売っている。それを買っていくのはカリビアンだけではない。 そもそもデリ自体がカリビアン地区にあるわけではなく、ごく小さな店とはいえ、 客層はあらゆる人種にわたっている。 他の多くのカリビアンが経営する店でも同じことが行われており、 その結果として、ゴート・カリーはニューヨークにだんだんと浸透していくのである。 このようにして無数の料理、言語、音楽、美術、文学 etc,etc …がアメリカに根付き、 アメリカはそれらを他国に輸出し、 また多くの人々が世界中からそれらを体験しにアメリカにやって来る。

    だがアメリカ政府にしてみれば、 世界中からやってくる移民たちに それぞれのお国料理を普及させてくれと頼んだわけでもなく、 それより不法移民がアメリカ市民の職を奪い、 また税金を払っていない彼らに政府予算のいくらかを使わざるを得ないことに 苛立っているのだ。 もちろん、それも充分に理解できる話ではある。

    ・・・

    レニーが住んでいるブルックリンのアパートの別の階には、 従妹のアンジェラも暮らしている。 ただし、レニーが弟二人と窮屈な共同生活をしているのに対し、 同じ間取りでアンジェラは余裕の一人暮らし。その理由はこうだ。 子供の頃、故郷のセント・ルシアでもレニーとアンジェラは親戚同士として、 互いにすぐ近所で暮らしていたそうだ。 まだ5,6才の二人が 他の兄弟姉妹やいとこ達と並んで写っている写真を見せてもらったことがある。 男の子も女の子も全員がいわゆるアフロヘアで、ほほ笑ましい写真だった。 やがてアンジェラの両親(レニーの叔父夫婦)はアメリカの移民ビザを取得し、 当時まだ子供だったアンジェラを連れてアメリカへと移住した。 (米国移民法では21歳未満で独身の子供は両親と同行できる) その後、 アンジェラはニューヨークで育ち、カレッジも卒業。 今ではロングアイランドの実家から独立し、 イースト・ヴィレッヂにある歯科医で助手として働いている。 若い一人暮らしの女性として人生を楽しみ、休暇には友人と共に、 生まれ故郷であるカリブ海へと旅行に出掛けたりもしている。

    対してレニーは移民ビザが取れないままに19歳の時に観光ビザでアメリカへ入国。 以後いくつかの職を転々とし、現在も“不法移民”という立場のまま、 エディの経営するデリで働いている。 どれほどの給料をもらっているのかは判らないが、あのエディのこと、 不法移民であるレニーやブック(恐らく彼もイリーガルだろう) に最低限の金額しか払っていないのは容易に想像がつく。 だから彼らは宝くじを買う。 仕事の合間にナンバーズの数字を占っているのは暇つぶしではないのだ。 犯罪に手を出すことを除けば、宝くじを当てる以外に現金を手にする方法がないのだ。 ある時は過去の当選ナンバーの記録をあたり、 また別のある時は一種の法則や数式を編み出し、 それに則ってその日に買う数字を決める。 ある日、レニーが紙切れに数字を書き連ねながら、 無意識に "Money, money, money …" とつぶやいているのを聞いたことがある。

    実はレニーはセント・ルシア時代に彫金の訓練を受けており、 ニューヨークに移ってからも、 宝石店で彫金師として働いているアンジェラの父親をごく時たま手伝っているという。 親戚をも含めて“ファミリー”を大切にするウエスト・インディアンらしく、 アンジェラの一家もなにかとレニーを助けているようだが、 アンジェラの父親も一介の勤め人であり、 労働許可証を持たないレニーにまともな仕事を世話することはできないのだ。

      移民ビザ。この一枚の書類が、人々の運命を変える。

      だが、とにもかくにも54万人の不法滞在者がこのニューヨークにいて、 その多くが待遇はさておき、とにかく職についているのだ。 もっとも仕事につけない不法移民も決して少ないわけではなく、 米国市民ではない彼らをどこまで福祉が助けるべきか、 というテレビ番組のレポートを見たこともある。 だが若く健康な男性であれば、職種さえ問わなければ仕事はあるはずだ。 レニーにそれが出来ないのは何か理由があるとしか思えない。 たとえばエディに借金があるとか。

    ・・・

    レニーがセント・ルシアを後にして8年。長期の不法滞在者となっている彼は、当然、 一時的な里帰りも出来ない。一度アメリカを出国したが最後、再入国できないからだ。 レニーはあまり詳しくは説明したがらなかったが、父親はボストンにいると言う。 そしてレニーのビザのためにいろいろと骨を折っているらしい。 だが父親が正規の移民かどうかは、あえて尋ねなかった。 ちなみにレニーが一緒に暮らしている弟二人はレニーとは母親違いで、 父親はセント・ルシアにレニーの母親と弟たちの母親を含め、 4人の妻を持っているらしい。 だが、南国の小島のこういった慣習も、 おそらくレニーの父親の世代を最後に途絶えるのだろう。

    とにかく、事情はどうあれ父親は同じ米国内にいる。 しかし、セント・ルシアに残っている母親には8年間会っていない。 そのママが、業を煮やして遂にニューヨークにやって来た。

      いつものごとく、アパートの一階、 実は半地下になっている流行らないデリの店先でレニーと立ち話をしていた。 私がここに越してきたのがクリスマスの直前。 それから春と夏が過ぎ、既に秋へ変わろうとしていた。 「ママがセント・ルシアからやって来た」と、レニーが言った。 話を聞いたこっちが興奮してしまった。 8年間、息子に会えなかった母親。 カリブ海の端っこの小さな小さな島国から息子に一目会いたさに、 遂に飛行機代を工面してやって来た母親。日本では到底考えられないことだ。 ここでエディがやって来た。例の派手な四駆だ。ということは今日の立ち話はここまで、 続きはまた明日。結局、私がエディとデートしなかったために、 彼は腹立ちまぎれにレニーとブックに 「店内外に於ける客以外の女性との立ち話禁止令」を発令したのだ。 こんな人間が実際に居るのだ、ニューヨークには。

    翌日、レニーが次の日曜日に彼のアパートに遊びに来ないかと誘ってきた。 実はママと一緒にレニーやアンジェラの従妹である女性と、 彼女のまだ小さな二人の子供も一緒にきていて、 アンジェラの部屋に滞在していると言う。 何故、私を誘うのか、一瞬不思議に思ったのだが、アンジェラとは会ったことがあるし、 なによりカリビアンの家族に興味が湧き、遊びに行くことに決めた。

    レニーとアンジェラが住むアパート。地下鉄Lラインにある駅のすぐそばで、 プロスペクト・パークにも近い。各階一戸ずつの小さな建物で、レニーと弟たちは2階、 アンジェラは1階だ。リビング・ルームに入ると、よく太ったにこやかな女性が座っていた。 ママだ。花柄のワンピースを着ている。 レニーが私を紹介し、私がハイと挨拶すると笑顔を返してくれた。 ひょっとして私が英語を話すかどうか判じかねているのではないかと思い、 「ニューヨークはどうですか」と話しかけた。 「えぇ、楽しいところね」と口数少なく答える。 朗らかだが、地方の人らしいシャイさが窺える。従妹の女性も同様だ。 だが彼女の2歳と5歳の息子たちは別だ。2歳のほうは女の子のように可愛い顔立ちだが、 なぜかパンツも脱いで、部屋の中を走り回っている。5歳のほうは生意気だ。 しばらく私と話をしていたのだが、私の英語が不明瞭だったらしく、 いきなり "I ca 〜 n't hear you〜!!" とやられた。 この世代は完全に英語で育っているらしい。

    部屋の片隅には、 セント・ルシアへのおみやげとしてママが買った小さな白いテレビが置いてある。 そのテレビには、これまた小さなカメラがついており、 それで撮ったものをテレビ画面に写せるようになっている。 アンジェラがカメラをママに向けると、ママは床に寝転がって手を振ってみせた。 レニーが笑った。アンジェラが笑った。そこにいた全員が笑った。 次の週、ママが帰っていったとレニーが言った。 さらに数週間後、アンジェラがデリに立ち寄ったときに私に言った。 ママが電話をかけてきて、あの日本人の女の子は元気かとアンジェラに聞いたと。 そこで合点がいった。 レニーがあの日私を誘ったのは、相変わらずイリーガルのままではあるけれど、 少なくともガールフレンドはいるし、ちゃんとやってるから心配はない、 とママに思わせるための工作だったのだ。

    ・・・

    1996年の秋、 クリントン政権は増え続ける不法移民対策として、強硬な移民法改正を発表した。 一年以上の不法滞在が発覚した者は向こう10年間の再入国禁止。 実質的にはアメリカには金輪際入れないということだ。 不法移民の多くが厳しい決断を迫られた。 新法執行の翌年4月1日までにいったん母国に戻って移民ビザを改めて申請し、 発給されるのをあてどなく待つか、違法のままアメリカに留まるか。 前者を選んだ場合、母国に戻って職にありつける保証はないし、 親子兄弟姉妹のビザの有無で家族離散のケースも実際に出た。 一方、後者を選んだ場合、合法移民になれる可能性は一切なくなる。 一生、保険も社会保障もないままに、賃金の低い仕事で働き続けなければならない。 どちらを選んでも苦境に追い込まれる苦しい選択だ。

    ・・・

    レニーはニューヨークに留まった。 セント・ルシアに帰っても仕事がありはしないのだろう。 実はエディの件がきっかけで自分が不法滞在者だと告げた時を除いて、 レニーがこの話題を口にすることはなかった。 話したところでどうにもならないということと、 万が一にも他人には知られたくないということらしい。 だが、ある時、遂に聞いてみた。 この先、一体どうするつもりなのかと。答えはシンプル。 「このままニューヨークにいる」と。 それでは永久にイリーガルのままで、将来どうにもならないではないかと、 しつこく尋ねる私にレニーが返した言葉は信じられないものだった。

    「叔父を通して、女性を探している。 米国市民権を持っていて、金を払えば結婚してくれる人を」 …つまりは偽装結婚だ。新法が施行されてしまった今となっては、 それ以外にレニーが合法移民になる手だてはないのだ。 かつてグリーンカード(米国永住権)を取るために見知らぬ男女が結婚するという、 その名も「グリーンカード」というコメディ映画があったが、レニーの話はシリアスだ。 と言っても、レニーは今回もこれ以上の説明をしようとはしなかった。 もしもレニーにアメリカ人のガールフレンドができて、その女性と結婚の運びとなれば、 それがいちばん幸運なパターンだろう。だが、 しがないデリの店員である不法移民とつきあったりする女性はいない。 そもそもアフリカン・アメリカンにとって、カリビアンは同じ黒人であっても、 あくまで「移民」であり「外国人」だ。また、カリビアンの合法移民や、 生まれながらに米国市民権を持っている二世以降なら、 なおのこと同胞の不法移民とは 「結婚」という形でのかかわりは避けたいのではないだろうか。 そもそも、それ以前の問題として、一週間に7日働いていては女性と出会う機会もなく、 だからこそ、 レニーはママに単なる知り合いである私を会わせるという 偽装工作をせざるを得なかったのだ。

    冬が過ぎて、やがて春になった。私がここに越して来てから既に一年以上が経つ。 ある日、レニーがなにげなく言った。「エディがこの店を閉めることに決めたんだ」 いつ? 次の仕事は? と聞く私にレニーは答えた。「来週。仕事は見つからないよ」 エディに対する非難が口をついて出そうになったが、私は結局、なにも言わなかった。 事実を受け入れて淡々と振る舞うレニーに (あるいは冷静な振りをしているだけかもしれないが) 私が興奮してまくしたてたところで、なにが変わるわけでもない。

    もちろんエディの正体、あるいは本業についての好奇心はあったが、 それもデリの入り口にもたれ、 黙って陽の光を浴びているレニーを前にして、尋ねることはもはや出来なかった。 翌週のある日、私が外出先からアパートに戻ってくると、 デリのシャッターが降ろされていた。 以来、レニーに会うこともなく、やがて私も日本に戻ってきた。

    New York Black Culture Trivia 堂本かおる
    HP: http://www.nybct.com
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書・木村怜由

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